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江戸300藩と城や歴史のブログ
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小見川藩
2025年8月23日土曜日
下総国
江戸300藩
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小見川藩 # 小見川藩 ## 概要 - 成立年:1594年 - 成立時石高:1万石 - 廃藩年:1871年 - 藩庁:小見川城⇢小見川陣屋 ## 歴代藩主 ### 深溝松平家 - 前:下総国上代藩 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |松平家忠|1594-1600|1| |松平忠利|1600-1601|1| - 次:三河国深溝藩 ### 土井家 - 前:旗本 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |土井利勝|1602-1610|1⇢2| - 次:下総国佐倉藩 ### 安藤家 - 前:旗本 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |安藤重信|1612-1619|1.66⇢3.66| - 次:上野国高崎藩 ### 内田家 - 前:旗本 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |内田正信|1639-1649|1| - 次:下野国鹿沼藩 ### 内田家 - 前:下野国鹿沼藩 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |内田正親|1724-1746|1| |内田正美|1746-1753|1| |内田正良|1753-1782|1| |内田正純|1782-1806|1| |内田正肥|1806-1816|1| |内田正容|1816-1837|1| |内田正道|1837-1851|1| |内田正徳|1851-1863|1| |内田正縄|1863-1864|1| |内田正学|1864-1871|1| - 次:廃藩 ## 藩史 ### 前史 小見川には鎌倉時代初頭に千葉氏一門の粟飯原朝秀が築いたと云われる小見川城があり、以降粟飯原氏が居城とし領有していました。 戦国時代には度々里見氏や正木氏に攻められ、1552年に正木時茂により落城、粟飯原氏は離散したと云われている様ですが、実際にはその後も粟飯原氏が城主であった様です。 その後の城主は森山城主も兼ねていた様です。粟飯原氏最後の当主俊胤は千葉氏宗家からの養子ですが、1590年の小田原の役では実兄千葉重胤と共に小田原城に入った様です。城は豊臣方に攻められて落城しました。 ### 小見川藩成立 #### 深溝松平家 小田原の役後、徳川家康が関東移封された後の1592年に松平家忠が1万石で小見川へ移されます。しかし家忠は当初は上代陣屋を居所とし、1594年に小見川城へ入り小見川藩が成立します。 1599年、家忠は鳥居元忠らと共に伏見城守備の任に就きますが、翌年伏見城の戦いで討死し、忠利が後を継ぐも更に翌年の1601年、父祖の地である三河国深溝へ移ります。 #### 土井利勝 忠利が去った翌年、土井利勝が1万石で小見川に入ります。 利勝は家康の外伯父である水野信元の庶子という説が有力視されていて、それが正しければ母方の従兄弟という関係にあります。 そういった関係性を示すかの様に利勝は少年期から徳川秀忠の傅役を務めていました。 その後1500石持ちの旗本格となります。最初1000石を与えられ、関ヶ原の戦いで秀忠に従軍した結果500石の加増となりました。そして1602年に8500石を加増されて1万石の譜代大名となります。 更に1607年に1万石を加増されて2万石となりますが、1610年に下総国佐倉へ移封されます。 #### 安藤重信 利勝が佐倉へ移った2年後、安藤重信が1.66万石を与えられて入封します。 重信は家康の旗奉行を務めた安藤基能の次男で、若い頃から家康、秀忠親子に従って戦功を挙げてきました。 1610年までに6600石の旗本格となり、翌年には老中となり幕政に参画します。 そして2年後に1万石を加増されて1.66万石の譜代大名となります。 更に大阪の陣での論功行賞にて2万石を加増され、3.66万石となります。 1619年、重信は広島藩の福島正則が改易された際に広島城受取を担当し、同年に2万石を加増され上野国高崎へ移封しました。 ### 一時廃藩 重信が高崎へ移された後、小見川藩は一時廃藩となります。 1636年から1639年の間、小見川領の一部が下総国矢作藩主の三浦正次に与えられた様です。 ### 内田家 1639年、内田正信が1万石で再立藩します。 正信は父正世から800石を相続し将軍家光に仕えた旗本でしたが、1637年に相模国海老名1000石を加増され、さらに1639年に下総国香取郡、常陸国鹿島郡の8200石を加増された事で計1万石の大名となります。 1649年、下野国都賀、安蘇両郡の5000石を加増されると正信は加増分の都賀郡鹿沼に藩庁を移し鹿沼藩へ移封となりましたが、小見川領は変わらず内田家の所領でした。 1688年、橋向城跡に陣屋が築かれています。 1724年、正信の玄孫である正親は父正偏が分与によって1.3万石となっていた所を蟄居された事で3000石を減封されて相続します。これで再び1万石となった内田家は藩庁を小見川陣屋を移します。 1753年、正親の子正美が没しますが実子は無く正信の弟である正友の玄孫正良が養子として跡を継ぎます。 1816年、正良の孫である正肥が没する際に子がいなかった為、旗本石河貞通の三男正容が養子として跡を継ぎます。 しかしその正容は1837年に蟄居となり子の正道が跡を継ぎます。表高は1万石のままですが、領地替えが行われ実高で約2600石が減封されたそうです。また正道の後は正徳、正縄と弟が養子として相続しています。 1864年、正縄が没すると内田分家正路の子正学が養子として後を継ぎます。また正学は正道の娘を妻に迎えています。正学は1868年に勃発した戊辰戦争において新政府軍に帰順しています。 1871年、廃藩置県により廃藩となりました。 ## 藩庁:小見川城→小見川陣屋 ### 小見川城 - 所在地:千葉県香取市小見川 #### 来歴 小見川城は鎌倉時代、千葉氏一門の粟飯原氏によって築かれたと云われています。 粟飯原氏は戦国時代も城主を務め、里見氏や正木氏に攻められながらも小田原の役まで城主であった様です。 江戸時代には松平家忠、忠利親子と土井利勝、安藤重信が小見川藩主となります。 重信が移封された後20年ほど空城だった様ですが、1639年に藩主となった内田正信が1649年に下野国鹿島に藩庁を移し、1688年に陣屋が築かれた事で廃城となった様です。 #### 構造 現在の城山公園、城山第一浄水場、小見川高校などが城域とされています。 現在の城山公園でも複数の郭が確認出来ますが、西側半分程度は失われている様に見える事からそれなりの規模であったと思われます。 ### 小見川陣屋 - 所在地:千葉県香取市小見川
小見川城跡
#### 来歴 小見川陣屋は1688年、鹿沼藩主で内田正信の子である正衆によって築かれた様です。 元々戦国時代に正木時忠が小見川城を攻略する為に築いた橋向城の跡だったとされています。 陣屋が築かれた頃の藩庁は鹿沼陣屋であったため、代官陣屋として築かれたと見られますが、1724年に正親が藩庁を移しました。 その後陣屋は幕末まで用いられ、廃藩置県によって廃止されました。 #### 構造 現在の小見川中央小学校敷地がおおよその陣屋跡地とされています。 陣屋という事で構造としてはほぼ単郭でその中に政庁などの建物が建っていた様です。 しかし西側に外曲輪が存在していた様ですが詳細は不明です。 また陣屋跡は現在、学校敷地と宅地になっていて遺構などは残っていない様です。 ## 参考文献 - 三百藩藩主人名事典 第2巻 (新人物往来社) - 日本城郭大系 第6巻(新人物往来社) - 小見川町史 通史編
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