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江戸300藩と城や歴史のブログ
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網戸藩
2025年4月1日火曜日
下総国
江戸300藩
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# 網戸藩 ## 概要 - 成立年:1590年 - 成立時石高:1万石 - 廃藩:1600年:改易 - 藩庁:網戸城 ## 歴代藩主 ### 木曽家 - 前:信濃国木曽福島城主 |名前|藩主在任期間|石高(万石)| |--|--|--| |木曽義昌|1590|1| |木曽義利|1590-1600|1| - 次:改易 ## 藩史 ### 前史:信濃から関東への転機 信濃国木曽谷を本拠とした国人領主・木曽氏は、木曽義康の代に甲斐の雄、武田信玄に屈し、その配下として従属することになります。信玄の巧みな外交と軍事力の前に、木曽氏は自立を断念せざるを得なかったのです。 しかしその後、武田信玄の子である武田勝頼の時代になると、情勢は一変します。木曽義康の子・義昌は、1582年に織田信長陣営へと寝返りました。寝返りの原因としては長篠の敗戦、新府城築城による普請の負担があったと見られています。この裏切りがきっかけとなり、武田氏は織田軍の「甲斐征伐」を招き、やがて滅亡に至ります。 武田氏滅亡後、義昌は徳川家康と羽柴秀吉の間を巧みに立ち回り、一時は生き残りを図ります。 しかし、やがて家康と秀吉が和睦を結び、1590年の小田原征伐で後北条氏が没落すると、信濃の国人衆も家康に従うこととなります。 この際、義昌も他の諸将と共に関東へと移され、新たに下総国の網戸に1万石を与えられ、移封されることになりました。 ### 網戸藩の成立と木曽氏の改易 下総・網戸に移封された義昌は、家臣たちに所領を分与し領内統治の基盤を整えた後、隠居を表明します。家督は嫡男・義利が継ぎ、義昌は一線を退きました。そして1595年、義昌はその生涯を閉じます。 ところが、義利の治世は長くは続きませんでした。義利は性格が粗暴で、振る舞いに問題が多く、家中の不和を招きました。 特に叔父である上松義豊との対立が深刻化し、ついには義利が義豊を殺害するという事件に発展します。この不祥事により、木曽氏は改易され、網戸藩はわずか数年でその幕を閉じることとなったのです。
木曽義昌公供養石塔(東漸寺内)
## 藩庁:網戸城 - 所在地:
千葉県旭市イ
網戸城は応永年間、後北条氏家臣の大橋康忠によって築かれたと云われています。 1590年、後北条氏が没落すると網戸に移封された木曽義昌、義利親子が居城とします。 しかし1600年、義利が改易され網戸藩が廃藩になると城も廃城となりました。 城跡には東漸寺などが建っていますが、遺構は残っていません。
網戸城跡に建っているとされている東漸寺
## 参考文献 - 三百藩藩主人名事典 第2巻 - 旭市史 第1巻 (通史編・近代史料編)
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